過去のメッセージ (2013年8月以前)


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メッセージバックナンバー

 メッセージのバックナンバーを取りそろえてみました。

TCCの皆様には、年始の聖書クイズ大会の対策に役立つのではないでしょうか。。。(^^;

2013年

2012年

2011年

2013年1~7月


2013.7.28 聖日礼拝のメッセージ

最後の晩餐 そのニ

ヨハネ13:33で、主は弟子たちに、「あなたがたは、わたしの行くところに来ることができない」と言われた。
ペテロが言った、「どこへおいでになるのですか」。
すると、
「今はついてくることができない。あとになってから、ついてくることになる」と言われた。
「なぜ今できないのですか、あなたのためには命も捨てます」とペテロ。他の弟子たちも、うなづく。

イエスは彼らを見まわし、「今夜、あなたがたは、わたしにつまづくであろう」と言われた。
「たとえ皆がつまづいても、わたしは決してつまづきません」とペテロ。
すると主が、
「シモン、シモン、サタンがあなたがたを、麦のようにふるいにかけることを願って許された。あなたの信仰がなくならないように、わたしは祈った」(ルカ22章)と言われた。
「主よ、わたしは獄でも、死に至るまでも、ご一緒に行く覚悟です」とペテロ。
「よく言っておく。あなたは今夜、ニワトリが鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう」
「そんなことは死んでも言いません」(マタイ26章)。
だが後でわかるように、イエスが捕えられ、まったく無力であることがわかると彼も弟子も逃げ去った。
「今夜、わたしにつまづく」と主が言われたとおりになった。

無力なイエスを知って信仰が試みられ、イエスにつまづく。それはいまの教会も同じである。
困っているのに助けが来ない。信じて祈っているのに、変化が見られない。叫べど、応答がない。
その時、次の言葉を知ろう。「今夜、あなたがたは、わたしにつまづくであろう」と言ったすぐそのあとで、「しかし、わたしはよみがえって、先にガリラヤへ行く」(マタイ26:32)と言われた言葉。
無力だったイエスが、よみがえる! 弟子たちはそのイエスに出会うのだ。ここに福音がある。
たとえ、しばらくイエスが何もしてくださらず、無力に思えることがあるとしても、決して失望してはならない。
信仰を持ち続けよう。彼を賛美し、ほめたたえ、栄光とほまれをささげよう。
天と地のいっさいの権威をもつイエスに出会う。
ペテロ第一5:10「しばらくの苦しみの後、あなたがたをいやし、強め、力づけ、不動のものとしてくださる」


2013.7.21 聖日礼拝のメッセージ

最後の晩餐 その一

マタイ26:26-29、マルコ14:22-25、ルカ22:14-20、ヨハネ13章
過越の祭の前に主は弟子たちと最後の食事をされた。最後の晩餐という。
パンを裂いて弟子に与え、
「これはわたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」と言い、ブドウ酒の入った少し大きめの杯を渡し、「わたしの血で立てられる新しい契約である」と言われた。

教会では聖餐式を行い、十字架で主イエスが、からだを裂かれ、血を流して犠牲となられたことを忘れないようにする。心に刻む。
十字架を心に覚える人は、高ぶらず、謙虚になる。
箴言18:12「人の心の高ぶりは滅びに先立ち、謙遜は栄誉に先立つ」
十字架の主を心に刻む人は、神のゆるし、愛、神の子とされたことを感謝し、喜び・平安を得る。謙虚さと共に人格の土台となる。
箴言6:21-23「つねにこれを心に結び、首のまわりにつけよ。これは、あなたを導き、守り、あなたと語る。教えは光、命の道である」
十字架の主から来る光が、思いを導き、守り、語ってくれる。

この中に裏切り者がいる、と主が言われた。弟子たちは騒然となった。だれだ!
そこから、“主に忠実なのは、このわたしだ!”という話になり、結局いちばん偉いのはだれだ?という話になった。
その時、主は互いに愛し合いなさいと語り、仕える人こそ偉いのだ、と話された。
そして
ヨハネ13章にみるように、弟子たちの足を洗われた。ペテロとの、やりとりで、足を洗うが全身はきれいだと言われた。この意味は何か。
ルカ22:28-30をも考え併せると、弟子たちはいままだ霊的な悟が乏しく未熟で、肉的な面が目につく。
だが、イエスにどこまでも従う姿勢(方向)だけはまちがっていない。
だから彼らに聖霊を与えよう。聖霊を受ければ、みことばを、さらに悟る。そして、
みことばにより、思い・考え方が新しく変わり、肉の子から神の子に変わる。
また、12部族を“さばく”とも言われた。
聖霊とみことばにより、善悪を知る知識や知恵が与えられるという意味である。
聖霊を受け、聖霊により新しい心が与えられることが重要だ。受霊するために、祈りの中で自分を神に全くささげよう。

 


2013.7.14 聖日礼拝のメッセージ

葬りの香油とユダの背信

過越の祭のニ日前、主が弟子たちとベタニヤのマルタの家で食事をされていた時、妹のマリヤが高価なナルドの香油を主の頭に注いだ。
弟子は、「もったいないことをする」と言ったが、「女を困らせてはいけない。わたしに良いことをしたのだ。わたしの葬りの準備をしたのである。」と主は言われた。

香油と葬り。ここに霊的な一つの真理が隠されている。
香油は聖霊を表わす。そして、聖霊が注がれるには条件がある。死と葬りである。
「わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのだ。わたしが去って行かなければ、あなたがのところに助け主は来ないであろう」(ヨハネ16:7)
わたしが去って行くとは死ぬことを意味し、助け主は聖霊を意味している。
パウロは
コリント第二4:10-12で、「いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちがこの身に現れるためである」と言った。
自分に死ぬ時に、自分の中に聖霊のいのちが働く。逆に、自分に死なず、肉の思いを出す時、聖霊は去って行かれる。
創世記6:2-3使徒5:32「神がご自身に従う者に賜った聖霊」。この“従う”も自分を捨てる、死ぬを意味している。
エゼキエル47:3-5は、聖霊の水を受ける下の地面(自我?)が低くなるほど水の量が多くなることを教えている。
自分を主にゆだね、ささげ、従っていこう。聖霊さまに来ていただこう。

主の弟子の一人ユダはイエスの到来を喜んだ。
イエスの力、知恵、人気をもってすればユダヤ人王国を興すことができる。各地からユダヤ人が集まる過越の祭の時こそ蜂起のチャンスと考えた。
主イエスが何を思い、言おうとも、ユダは自分の考えを変えなかった。
祭司長によりイエスを捕えさせ、ローマへの反逆の口実を見つけて総督に突き出し、死刑の判決を引き出す。群衆が騒ぐ。するとローマの軍隊が出動する。
その時、イエスは群衆を救うために立ち上がるだろう。頭でそんなシナリオを描いていたのではないか。
しかし、そうはならなかった。彼は結局自滅した。
神はあなたやわたしの思いどおりにはならない。神を従わせるより、わたしたちが神に従うことが、道・真理・命なのだ。

 


2013.7.7 聖日礼拝メッセージ

マタイ26:1-4
過越の祭のニ日前、主イエスは弟子たちに、「人の子(イエス)は十字架につけられるために引き渡される」と言われた。
過越の祭は、昔イスラエルがエジプトで苦難の日々を送っていた時、あまりの苦しさに神に救いを求めたとき時、
神がモーセを登場させ、
イスラエルをエジプトから脱出させた(出エジプト)日にイスラエルが行った事に由来する。
その日、神は滅ぼす天使を送り、エジプトをさばかれた。エジプトのすべての初子が一夜のうちに死んでいった。
イスラエルの家はさばきを免れた。それは前もって神がモーセを通してイスラエルに“贖い”を行わせたからである。
各家ごとに羊を殺し、その血を戸口の柱と鴨居に塗った。滅ぼす天使はその血を見て、その家に入らず、通り過ぎた。
かくて、さばきを免れた。この事を末長く忘れないようにユダヤ人は過越の祭として年一度大切に守った。

ここでイエスが言われた意味は、“わたしは人類の贖いのために過越の犠牲の羊として来た。
ニ日後の過越の祭の時、わたしは十字架にかけられ、血を流し、死ぬであろう”である。
バプテスマのヨハネが初めてイエスを見た時に言ったことば、“見よ、世の罪を取り除く神の小羊”(ヨハネ1:29)が現実になるのである。
 だれでも、十字架のイエスが流された血を、自分の罪の贖いの血であると信じるなら、
神のさばきの日に、御使いにさばかれず、彼は過越す。

しかし、信じない者(イエスの血を心に持たない者)は、死後の審判の時、さばかれるのである。
イエスに反対し、敵対する勢力がイエスを捕えて殺す相談を始めた。いまもこの勢力は同じことを繰り返す。
わたしたちの心の中のイエスを捕え、取り除こうと策略をめぐらす。せっかく洗礼まで受けながら、教会を去ってしまう人が後を絶たない。
エペソ6:11にあるように、神の武具で身を固めるべきである。神の武具とは、みことばである。祈りである。
みことばの全体の知識が不足していると、自分の思いや考え、サタンの誘惑のことばに負けやすい。

 


2013.6.30 聖日礼拝のメッセージ

 

 戦い抜いて、永遠のいのちを得る

信仰の戦いをりっぱに戦い抜いて、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたはこのために召され、多くの証人の前で、りっぱな証をしたのである。
(Ⅰテモテ6:12)

「御子を信じる者は永遠の命を得る」とヨハネ3:16に約束されています。
得るということは、手を出して待っていたら永遠の命が天から降ってくるものではありません。獲得していくものです。
獲得するためには、戦って奪い取っていくのです。

モーセの死後、ヨシュアをリーダーに、ヨルダン川を渡ったイスラエルは、次々とカナンの地を攻め取っていきました。
大した武器もないイスラエルが、鉄の戦車を持っているカナンの連合軍を相手に、また、ネピリムという大男の住んでいる町々を、どのようにして攻め取ることができたのでしょうか。
主が「軍勢の将」を遣わしてくださり、イスラエルの前に進んで行って戦って下さったからです。
イスラエルは、主の勝利の約束の言葉を握って従順しただけです。

私たちクリスチャンは霊的イスラエルとして、信仰の戦いを戦い抜いていかねばなりません。自分の力で戦うのではありません。
わたしたちと共にいる軍勢の将は、約束の御言葉です。
悲しみや苦しみの中で、あなたを支える御言葉があるかどうか。失望や落胆と戦うとき、御言葉を宣言して勝利することができるかどうか。
日曜礼拝を守るために、信仰の証を語れるかどうか。御言葉が働いてあなたに命を得させ、戦に勝利させてくださるのです。

今、週報にムン・ボンジュ先生の「早起きクリスチャンの祝福」の本を要約して連載していますが、「自分は母の胎内にいるときから教会に通い、中学・高校 もミッションスクールに通って聖書を学び、その上42年間、礼拝で説教を聞いてきたのに、救いに関する御言葉を一つも挙げられなかった。こんなことがあっ てよいのか!」と自分を恥じて劣等感に苛まれた時のことを告白しています。
かなしいかな、日本の教会の大半のクリスチャンも同じようなものです。

御言葉で武装(心に留まる)されて、信仰の戦いを戦い抜いて豊かな命を獲得する者になりましょう。

 

 


2013.6.23 聖日礼拝のメッセージ

 

イエスと教会は“一体”である

マタイ25:31-46 『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。

主が“わたしの兄弟”と言われた人たち、すなわちイエスに従っている人たちに対する“愛”が問われている。
兄弟姉妹を愛することはイエスを愛することに等しい。兄弟姉妹を愛さないことはイエスを愛さないことに等しい。
兄弟姉妹とイエスは“一つ、一体”だと教えている。

使徒行伝9:4で、主がサウロに、「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」と言われた。
当時サウロ(回心する前のパウロ)は教会の兄弟姉妹を迫害していたのに、イエスは「なぜわたしを迫害するのか」と言われた。

ヨハネ21:15-17では、復活されたイエスがペテロに「あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」と尋ねられた時、ペテロは「あなたがご存知です」と答えた。
するとイエスは、「わたしの羊を飼いなさい」、「わたしの羊を養いなさい」と言われた。
教会の兄弟姉妹を“育て、養う”ことで、わたしへの愛を現わしなさいと。兄弟姉妹にすることは、主にすることなのである。

これらの言葉によって、教会の兄弟姉妹に対する“見方”が新しくなる。
教会とは、兄弟姉妹とは、イエスを信じる人、イエスに従っていく人、イエスのみこころを行う人という見方に加えて、もう一つ、イエスと“一つ、一体”という、驚くべき見方が紹介された。

また、愛の行いは、人に感動を与え、幸せを与えるものである。
先日の河野姉のお母様の葬儀に、TCCの兄弟姉妹がたくさん出席してくださった。
告別式の時は、あいにくの雨降りだったが、雨にも負けず出席してくださった。
それを見て河野姉は無論のこと、兄弟姉妹もお互いに心に感動を覚えたと思う。河野姉妹のお兄さん夫婦、大阪のおばさんは、私にも直接、感謝の言葉や感動の言葉を伝えてくださった。
兄弟姉妹によって、牧師の私は非常に感動を与えていただいた。すべては主にしていることなのである。


 

2013.6.16 聖日礼拝のメッセージ

天の父である神の大きな愛

「私たちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜ったことか、よく考えてみなさい」(ヨハネ第一3:1)
神は、わたしたちの“天の父”である。わたしたちは神によって創造された者である。他の動物と異なり、神の“かたち Image”に造られた。だから、 神のように、いろいろなものを創造することができる。愛・正義・平和・喜び・ゆるし・将来への思い・計画性など他の動物には見られない特有の心や思考を もっている。
つまり人間は、神の子として造られた。これが最初の神の大きな愛である。
ところが、人間は目に見えない神を認めず、知ろうともせず、神などそっちのけで自分の道に向かって行った。不従順なカインの子孫レメクの時代に、産業や 文化が飛躍的に発展した。だが、人心は逆に荒れ、平安のないものとなった。現代と似ている。神を捨てた人間は、結局やみの中に住むことになる。表向きは明 るく、活気があるように見えても、多くの人の心は虚ろである。何人が気づいているだろうか。
神は人間を、やみから救うために、御子イエス・キリストを世に誕生させ、人間の罪を御子に背負わせた。それが十字架である。人間をゆるし、神の子に立ち返らせようとされた。ここにも神の大きな愛がある。
ゆるされ、神の子に立ち返った者に、神は、みことばと聖霊をお与えになる。
詩篇23:2-3にあるように、魂を生き返らせ、正しい道に導かれる。それもまた神の愛である。
四つ目は、ゆるされ、神のみことばと聖霊に生かされて歩む者のために、神は永遠の神の国を用意された。この地上の人生が終わる時(肉のからだが機能停止 した時)、霊魂は眠りにつくが、神の声で目覚め、霊のからだが与えられる。天使のように、神の国でキリストや世界中の天の聖徒たちとともに平和に、輝いて 生きる。病も苦もない。悪も罪も悔いもない。聖徒たちによる新しい感動、新しい充実がある。天の父である神を日々ほめたたえる。ここがゴールである。

 

 


 

2013.6.9 CS分級から 

ハンナの決意と祈り

CS分級の学び、サムエル記上1章から。 ハンナはエルカナの正妻だったが、長い間子どもができなかったため、夫は息子を得るためにペニンナという女性を第二の妻に迎えた。彼女は息子や娘を生む と、しだいにハンナを見下すようになった。そればかりか、ハンナに子ができないのは、神がその胎を閉ざされたからだと言った。つまり、神さまから見捨てら れたのだと言い放った。
ハンナは三重の苦しみの中で、あえいでいた。夫はハンナを慰めてくれるが、それでも苦悩はどうにも治まらなかった。
状況は異なるが、日本の教会の牧師たちはハンナの苦悩を、わが身に置き換えて見ることができるのではなかろうか。
つまり、主にもっと子をお与えしたいのに、思うようにいかない現状の口惜しさや苦悩である。牧師にかぎらず、心ある信徒はそう思っているのではないか。そ んな中、“日本は神が胎を閉ざしておられる。近隣の国への重大な罪がある。国内に偶像が満ちている”などと非難する声も聞こえてくる。
ハンナは涙の谷を幾年も歩き続けなければならなかった。だが、ある時彼女は決意した。次の年、シロの神の宮へ行く時、神に心を注ぎ出して、もう一度、真剣に祈ろうと。その時が来た。食べる気にならず、飲む気にもならず、ひたすら祈った。涙ながらに心の中で神に求めた。
悩みの深さ、大きさが祈りの深さ、大きさになる。彼女は約束した。子はナジルびととして神にささげますと。老祭司エリが来て、彼女が真剣に祈っていたことを知ると、言った、“安心して行きなさい。神があなたの求める願を聞き届けられるように”。
ハンナの心に平安がきた。
ピリピ4:6-7「そうすれば、神の平安が心と思いを守るであろう」。
奇跡的な神のわざがなされた。ハンナに男の子が産まれた。サムエルである。約束どおり、幼い日に神の宮にささげられ、神の箱のあるところで寝起きした。
神は幼いサムエルに声をかけられた。“しもべ聞きます。主よ、お語りください”。彼はこの姿勢をもち続けたので、神はその後もサムエルにお語りになった。彼は先見者・預言者として大活躍し、イスラエルの民心を神に向けさせた。

 


 

2013.6.2 聖日礼拝メッセージ

 

天国のタラントのたとえ

マタイ25:14-30 主人が長い旅に出る時、しもべたちを呼んで、それぞれの能力に応じて5タラント、2タラント、1タラントを渡し、“わたしが帰ってくる時まで、それを増やしておきなさい”と言った。
しもべたちはそれぞれ活用して倍に増やした。ところが1タラントの者は小心者で活用せず、土の中に隠しておいた。活用して損失を出したり、盗まれた場合のことを心配したのだ。

かなりの年数が経って主人が帰ってきた。しもべらはそれぞれ倍に増やしたタラントを差し出した。主人は10タラントの者にも4タラントの者にも、「よく やった。多くのものを管理させよう」と同じことばで褒めた。1タラントの者はひどく叱られた。“土の中に隠すくらいなら、銀行に預けたほうがましだった。 わずかでも利子がついたものを。役立たずめ”。彼は外の暗闇に放り出された。
このタラントのたとえから何を学ぶのか。クリスチャンに与えられたタラントは何か。キリスト による神への罪のゆるし、みことばと聖霊の命と光。復活のキリストによる永遠の神の国。肉体に代わる霊のからだ。これらは天国のタラントである。信仰と聖 霊によって各自がそれらをどれほど受け取っているか、個人差がある。だが、ここでのポイントは、受け取ったタラントをどれほど活用し、増やしたかにある。 では、どこで活用し、増やすのか。
教会生活が活用の場であり、チャンスを提供している。礼拝での主への感謝と賛美、証、献金、祈り。これらはすべて主への“ささげもの”である。なぜささげ ることが多いのか。ささげることが活用と増加の道だからである。ふつうに感謝し賛美するのではなく、全身全霊で思いっきりする。祈りも、自分のことだけで なく、主が願っていることを祈る
(マタイ6:9-10)。兄弟姉妹や求道者のために、とりなしの祈りをする。これが成長した(タラントを増やした)祈りである。礼拝以外にも、交わり、奉仕、伝道がある。成長した交わりとは、相手の“徳”を高めるような交わりを言う。単なる雑談の交換ではない。徳を高めようと自分から意識的にするのではなく、その思いを心にもっていれば、聖霊さまがチャンスをくださり、ことばや態度をくださる。

 


2013.5.30 みことばの学びメッセージ


キリストによる解放

木曜の学び。
ガラテヤ5:1「キリストは自由を得させるために解放してくださった。だから、堅く立って二度と奴隷のくびきにつながれてはならない」。

ユダヤ人クリスチャンに対しては割礼、安息日、食べ物のこと、きよめのこと、祭儀的律法と律法学者による事細かい規定からの解放を言ったものである。

では、ユダヤ人以外の人たち(異邦人)にとっての解放とは何なのか。異邦人はいったい何の奴隷なのか。
5章後半に、“肉の働き”(19-21)として五つの分野が挙げられている。
今も多くの人が“捉えられ”抜け出せないでいる。それからの解放である。まずその一分野“不品行・汚れ・好色”について。

いわゆる男女の“ふしだらな関係、不倫”。夫や妻があるにもかかわらず、異性と肉体関係をもつこと。
文学や芝居・映画・映像などがこれを好んで取り上げてきた。刺激になるからである。
当たり前のことであれば刺激にならない。不倫は刺激文化の花形。だが、当然、離婚の原因にもなる。
わかっちゃいるけど、やめられない。まさしく奴隷なのだ。

好色。女性に対して、みだらな思いを抱くことと辞書にある。
痴漢や盗撮、セクハラなど、昨今いたるところで事件を起こしている。まさかと思われるふつうの人たちがである。
妄想に囚われた男性のそういう好色癖につけ込むかたちでギャルどもが“援助交際”と称する“いかがわしい関係”を持ち込むといったことも社会現象として流行った。
女性自身が自分をセクシャルな商品として売り込むような時代である。
いまの時代は道徳観念が低いが、とくに性道徳はないにひとしい。ノアの時代を思わせる。

妄想に絡めとられることなく、神からの大志に心が支配されるようになろう。神の前に出てよく祈ろう。
主よ、心に願い(願望、目標、大志、夢、ビジョン)を与えてくださいと真剣に求めていく。
「あなたがたのうち(心)に働きかけて、願を起こさせ、かつ実現に至らせるのは神である」〈ピリピ2:13〉。
粘り強く祈っていくと、聖霊が心に願を与えてくださる。さらに祈る。
神は実現に向けて次のステップへと導いてくださる。こちらに捉えられよう。

 


 

2013.5.19 聖日礼拝メッセージ

 

主を待つ者の“思慮深さ”と“思慮の浅さ”

マタイ25:1-13 この箇所を一言で言えば、“主が来られるのを、備えして待つ”ということ。
備えと言えば、一昨年の東北大地震以来、日本中が、次に来る大地震への備えについて、あれこれ語り合ってきたし、また、北朝鮮のミサイル攻撃に対しても備えるべきだとも言う。
私的レベル、個人レベルでもいろいろ備えることはある。
それとは別にクリスチャンの場合、もう一つ特別な備えがある。主が来られるのを備えして待つことである。

主は来られる。それはノアの時のようだという。神はノアに洪水を予告し、箱舟を造りなさいと言われた。さばきと救いである。
ノアは家族と箱舟をつくりながら、人々に洪水と箱舟のことを伝えた。人々は、あざ笑った。しかし洪水は来た。
箱舟に入った者が救われ、入らなかった者は滅びた。

マタイ25章の十人の乙女は、花婿の帰国を朝から待っていた。ところが、昼になっても、夜になっても花婿は帰って来なかった。
思慮深い五人は、明かり用の油を用意して眠った。他の五人は思慮が浅く、油を用意せずに眠った。
花婿は夜中に帰ってきた。十人は急いで起きて明かりをつけたが、油のない五人の明かりは消えそうになった。
そこで、あわてて買いに行った。その間に花婿が来て、明かりをもった五人と婚宴の部屋に入った。
買いに行った五人は、閉め出された。
これは、わたしたちへの教訓である。

明かりは、みことば。油は聖霊。“主とお会いする”時まで、心にみことばをもち続ける。頭ではなく“心に信じて義とされる”からである。
主のわざや解決の兆しが見えなくても、みことばを単純すなおに信じ、大胆に信仰告白していく。
その信仰に聖霊さまが働かれ、みことばに油を浸して火をつけ、光のように輝かしてくださる。

「みことばが開けると、光を放って、無学な者に知恵を与える」(詩篇119:130)。
すると
心は喜びで満たされ、大いに主をほめたたえ、主を力強く賛美するようになる。こういう人に主は、みわざをなしとげてくださる。
それは“再臨のキリストに会う”という特定の異常な経験とは異なる、ごくノーマルな日常的な経験である。
この延長線上に特定の経験が与えられる。


 

2013.5.12 聖日礼拝メッセージ

目をさまし、用意をしていなさい

マタイ24:35-51 35節で「天地は滅びる。しかし、わたしの言葉は滅びることがない」と言われた。
天地が滅びる前に、わたしたちの身体の寿命が尽きてしまう。火葬場の焼却場で焼かれ、白い骨だけが残る。
朝に紅顔の美少年、夕べに白骨となる”とはよく言ったものだ。
一生懸命に生きても骨しか残らないとは、あわれで、はかないものだ。
では天地の中で、滅びないものが、いったいあるのか。ある。唯一それは神である。
神は霊であるから滅びない。永遠に生き、存在する。神が宇宙に物質を創造し、天地の世界を創造した。
最後に人間を創造した時、「神のかたちに創造した」(創世記1:26-27)。霊なる神の「かたち」とは「性質と力」を表す。
人間は神の霊に近い霊を与えられた。
人間がすぐれた創造能力をもつのは、そのためである。
人間は、それが神からのものであることを忘れ、自らを誇り、神などなくても生きていけると思うようになり、次第に高慢になっていった。

そして高ぶりが、その後のあらゆる種類の罪悪を生み出していった。
人間はその結果、神にさばかれるべき存在となった。
これが聖書から見た人間観である。だが、人間はそれを知らない。自分では知ることもできない。
神から知らされるという方法だけが、唯一の知る方法である。

身体は白骨となり、霊魂は神の審判を受けるとすれば、人間の未来は悲惨でしかない。
だが、神は高慢な人間を救うため、救い主キリストを送られた。
彼を十字架に導き、死なせた。人間の贖罪のためである。ここに神の愛を見る。
十字架のキリストは、わたしの罪の贖いの死だったと信じるなら、その人を神はゆるされる。
神は個人的に呼びかけ、語り、人間を生かし、正しい道に導こうとされる。
それが、神のことばである。神のことばは霊であり、永遠のもので滅びることはない。

十字架のキリストにより罪ゆるされた者は、キリストの犠牲愛に深く感謝する。
そして、復活され、天に帰り、
ゆるされた者たちを迎えようと準備しておられるキリストに心の目を向ける。
これが「目をさまし」である。
そして、彼に会う用意をする。花嫁が用意をするように。
アモス4:12もそのことを教えている。何をもって用意するのか?
テモテ第二3:16-17と詩篇23篇にあるように、聖書のみことばと聖霊さまの助けにより、整えられていかなければならない。
自分勝手な、わがままなクリスチャンは主の前に通用しない。

 

 


 

2013.5.5 聖日礼拝メッセージ
終末預言

マタイ24章 24章は近い将来に起こるエルサレムの破壊(神殿の焼失)とキリスト教への迫害、そしてはるか遠い未来に起こるユダヤ人クリスチャンとキリスト教への大迫害と終末(世の終わり)とキリスト再臨についての預言である。
エルサレムの破壊はキリストが語られた40年後の紀元70年、ローマ帝国のティトゥス将軍が率いる軍団により成し遂げられた。
もう一つの遠い未来のほうはまだこれからである。
にせ預言(団体)がいくつもある。

神様の教会世界福音宣教協会という団体がある。
400の教会が登録し、100万の信徒がいると言い、YouTubeに動画を配信しているが、韓国人教祖安商洪(アンサンウン)が再臨のキリストだと信じている。その人は1985年に死亡している。
ほんとうに聖書を学んでいれば、おかしいとすぐ気が付くはずだ。

「この組織だけが聖書を正しく学んでいる」「この組織以外に救いはない」と印刷物でアピールしている「ものみの塔聖書冊子協会」は二人一組の訪問活動で、いまや有名だ。聖書を正しく学んでいるというが、とんでもない。
この団体はこれまで世の終わり(終末)とイエス・キリストの再臨(パル-シア、臨在、再来)について盛んに書物や雑誌に書いてきた。

スペースがないので詳しく書けないが、1925年発行の『神の立琴』に、「1874年以後この地上に主イエスは臨在されている」と書いている。
この一事を見るだけで、まちがいだと気づく。
2年後の『創造』にも、「即ち1874年となり、この年こそ主イエスの再臨の年として聖書の明示する年である」と、1874年を強調する。
ところが1933年発行の『光』では、「1879年頃において主イエスの臨在が見え始め・・」と、数字を変更し、さらに、1943年発行の『千年王国』 209頁では、「それで当然のこととして、1874年を主イエス・キリストの再来および、その目に見えない臨在つまりパル-シアの始まりの年とする考えは 葬り去られました。・・・王の臨在もしくはパル-シアは1914年に始まりました」と、1874年説を葬り、1914年説をアピールした。
都合が悪くなるといつでも前説を変更する。これがこの団体の特徴。人間の頭で言説を組み立てている。


 

2013.4.28 聖日礼拝メッセージ


エルサレムの破壊と終末預言
マタイ24:1-14 他のマルコ13章では、イエスが宮から出て行かれる時、弟子のひとりが、「先生、見てください。
なんという見事な石、なんという立派な建物でしょうか!」と言ったという。すると「あなたは、これらの大きな建物に目をとめているのか。
これらの石が崩されずに、このまま残ることはない」と言われた。後で4人の弟子が、「さきほど言われたことは、いつ起こるのですか。
また、あなたがおいでになる時や世の終わりには、どんな前兆がありますか?」と尋ねた。マタイ24章は、これに答えたものである。

イエスが語られたのは紀元30年だが、その40年後にエルサレムはローマの軍団により破壊され、神殿は焼失する。
4-8節は、その前兆を語る。①キリストを名乗る者が現れ、多くの人を惑わす。②戦争と戦争のうわさを聞く。
民は民に、国は国に敵対して立ち上がる.③飢饉、地震がある。紀元66年にユダヤで反乱が起こった。
シリア総督が税の未納分を徴収するため、エルサレム神殿の宝物庫から17タラントを持ち出したのがきっかけだった。
反乱鎮圧のローマの守備隊を反乱軍が撃退し、ロ―マとユダヤの全面戦争になった。
皇帝ネロの自殺で、中一年半あまり中断したが、70年の春、エルサレムは5万の軍勢に包囲され、5カ月後に崩壊した。
ユダヤの死者・捕虜は60万だったという。「これらは産みの苦しみのはじめである」。
ユダヤ人はこの後もローマ帝国時代とそれに続くヨーロッパキリスト教時代において幾多の辛酸を味わい、
現代もアラブ諸国の中で、ひとり苦闘している。

9節以後は教会に対する迫害についてである。それは、教会の“はじめ”(ローマ帝国時代)と“おわり”(黙示録時代の大患難時代)に起こる。
キリストの再臨と世の終わり(終末)は、その後である。いくつかの前兆も解釈によるが、宗教で言えば、新興宗教や異端がはびこる。
世の中で言えば、神への関心はますます薄れ、人々は利己的になる。
その一方で、かっての終末時代のノアとその家族のように、熱心にキリスト(箱舟、福音)を伝える教会がある。
その教会でありたい。前兆の前兆がすでに見え始めていると思う。


2013.4.21 聖日礼拝メッセージ

マタイ23:13-39 “偽善な律法学者、パリサイ派の人たちよ”。イエスは彼らを厳しい口調で非難された。
預言者エレミヤによる「見よ、わたしがイスラエルの家とユダの家とに新しい契約を立てる日が来る。
この契約は・・・エジプトの地から導き出した日に立てたようなものではない。
わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。わたしは彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない」(31:31-34)
の神の言葉を思わず、新しい契約をもたらしたイエスを受け入れず、受け入れようとする人を妨げた。
そして、彼らの古い契約を熱心に伝えて“地獄の子”を増やしている。

なぜ地獄の子なのか。「わたしによらなければ、だれも父のみもとに行くことはできない」(ヨハネ14:6)
父のみもとは神の国。そこに行けないとは、地獄に行くことを意味するからだ。イエスによらなくてもいいではないか。
どの宗教を選ぼうと本人の自由だ。日本人はそう考える。人間中心的な考え方をする。
入国許可証を持たない外国人が入国審査の場で、どうして入れてくれないんだと言っているのと同じだ。
自己の視点でしか見ていない。神の国に入るためには、神による罪のゆるしを受けることが必要なのだ。この知識が欠落している。
自己を中心にしているから相手のことが、まるで見えないのだ。
神のゆるしの使者としてイエスは来られた。33歳で十字架刑を受け、罪ある人間の身代わりの犠牲となられた。
このイエスを救い主と信じる者(受け入れる者)を神はゆるされる。これ以外に、ゆるしはない。
さらに、復活昇天されたイエスから、聖霊を受けることにより、人は神のことばを理解し、生きることができる。神の国の実体はここにある。

彼らは目に見えるもの(外形をもつもの)を追い求め、それよりもはるかに重要な、目に見えない本質的なものを見ようとせず、求めようとしない。誤った道へ人々を導いていく盲目の案内者であり、偽りのガイドである。

彼らが依拠するエルサレム神殿は、いま豪壮なものだが、やがて廃虚となるとイエスは警告された。
40年後、ローマの軍団により焼かれ、廃虚となった。


2013.4.14 聖日礼拝メッセージ


創世記第6章 ノアの時代とはどんな時代だったのか。彼はどんな時代を生きたのか。「世は神の前に乱れ、暴虐が満ち、すべての人が地の上でその道を乱した」とある。人間性の腐敗堕落が、さまざまなかたちで顕われ、各地に伝染し、はびこったことが窺える。
神とともに歩んできた神の子たち(神のことばに耳を傾け、従ってきた人々)でさえ、神とともに歩むことをしなくなり、人の子(神よりも自分や人間性に従う人々)に倣うようになった。
1-3節が、結婚ということばでそう言う状態を表現している。

これはキリスト教の歴史の中にも見られる。かってヨーロッパはキリスト教の国と言われた。だが、いつしか信仰や聖霊よりも、人間の理性を重んじ、形式的 伝統を固守するようになった。いわば理性や形式的伝統と結婚したのである。ノアの時のように、聖霊は人々から去って行かれた。やがて理性は産業革命を生 み、人々の暮らしは驚くほど豊かになり、便利になった。人々は理性を賛美し、あがめ、さらなる発展を求め、世俗国家へと変身脱皮していった。
ノアはその時代の人々の中で“正しく、かつ全き人”であった。ただひとり神とともに歩みつづけた。自 分が主導権を握るのではなく、神の主導権に従った。全きとは、続けることを言う。神はノアに重要なことを語られた。箱舟を造れ、この時代を洪水で滅ぼす と。ノアは家族とともに木材その他の必要な資材を探した。切り出し、運んだ。神の設計図に従い、切り、削り、磨き、曲げ、つなぎ、張り合わせ、整えた。
そして組み立てた。どの作業も多くの労苦と日数を要した。

いまの時代はどうか。ノアの時代に似るようになった。豊かな暮らし、人心の腐敗堕落。では現代に箱舟はあるのか。
現代の箱舟はイエスであり、イエスを伝える教会である。ノアと家族の時のように、教会(箱舟)を建てあげる作業を命じておられる。
信者は各自その意識と知識をもち、作業に加わろう。この作業は、「いたずらに働き、むなしく力を費やした。しかし、わが報いはわが神と共にある」(イザヤ49:3–4)と言う信仰に支えられ、継続される。 


2013.4.7 聖日礼拝メッセージ


律法学者、パリサイ派の問題点を指摘する

マタイ23:1-12 イエスは律法学者やパリサイ派の人々にみられるいくつかの問題点を指摘された。
それは、弟子たちが同じ過ちを犯さないようにするためであった。
「彼らはモーセの座にすわっている。彼らの言うところは守って行いなさい。
しかし、彼らのすることには倣うな。彼らは言うだけで、実行しないから」
。モーセの座にすわっているとは、旧約時代にモーセは神のことばを民に語り、教え、絶対的な権威をもって民に臨んだ。いま律法学者たちは同じように権威をふるい、民を従わせているという意味である。
彼らの問題点の一つは、
「重い荷物をくくり、人々の肩にのせるが、自分では指一本も貸そうとしない」ことである(4)
要求ばかりで、手伝ったり、協力しようとしない。
職場で嫌われる上司や先輩のタイプはそれである。部下や後輩にあれこれ要求するだけで、何も手伝わない。要求どおりにしないと嫌味を言い、人格への暴言をはき、脅す。また別なタイプもある。口では理想的なことを言うが、自分の人格は分裂的で、裏表が激しい。
そのことに気づいていない。

昔の人は、このテの人を“乞食のおかゆ”と言った。湯(言う)ばかりで、具(実、実行)がないという意味。家でも亭主関白は嫌われる。家事を手伝い、協力する人は感謝され、重宝され、大事にされる。
イエスはもう一つ指摘された。「彼らは人に見せようとする」と。ある人の名刺を見て驚いた。役職肩書きがズラリと書かれ、裏にまで続いていた。意図がどこにあるのかわからないが、自分の力のアピールだけなら感心したことではない。
牧師の中にも、社会的地位の高い信徒たちが自分の教会にいることを誇る人がいるが、キリストの前に誇れる信徒とは、この世の地位肩書きではなく、キリストの愛と謙遜(従順)、信仰と忠実、神の目的に生きる人である。

かって高松での何人かの牧師の集まりに四国学院大学の学長として関西学院大学から転任して来られた橋本牧夫氏が挨拶にみえた。“わたしたちは、キリストのほか何も誇るものがありません”と言われた。そのことばが数十年たった今も心に残っている。

 


2013.3.31 聖日礼拝メッセージ


死と復活

パウロは「あなたの蒔くものは、死ななければ生かされないではないか」(コリント第一15:36)と言った。
柿の種を土に埋めたら、何年かしてりっぱな木になり、たくさんの実をつけた。種そのものは消え、木に生まれ変わった。
こういう自然界の現象を知った古代人でインドにいた人が、人間も死ねば、かたちを変えて生まれ変わると考えた。
輪廻転生と言い、後に仏教思想の中に取り入れられた。
日本でも平安時代の高僧仁海僧正は、ある牛を見て、母の生まれ変わりと思い、その牛を買い取って大事にした。
牛が死ぬと、皮をなめし、曼荼羅を描いた。京都山科の曼荼羅寺の本尊がそれである。

聖書が言う復活は自然現象ではない
「神はこのイエスを・・・よみがえらせた」(使徒2:24)とあるように、
神の意志と力による
それは神の霊(聖霊)の働きである。聖霊が人の霊魂に働くと、その人の霊は生かされる。リバイバルである。
イエスにより罪ゆるされ、信仰と聖霊に生かされて歩む者は、死後、聖霊により「霊のからだ」が与えられ、
いまとは別次元の永遠の神の国に生きる。それが復活である。

聖霊はだれに与えられるのか。「神が、ご自身に従うものに賜った聖霊」(使徒5:32)とある。
自分の思い、考えに従うよりも神に従う者に与えられる。
ペテロは沖へ出た。マルタは墓の石を取り除いた。いずれも自分の思いを捨て、主のおことばに従った。
その時、聖霊の力あるわざがなされた。

ロシアの代表的な作家ドストエフスキーの作品「罪と罰」の隠れたテーマは復活である。
金貸し老婆が大金をもっているよりも、貧しいが有能な自分がもつほうが世のためにはるかに役立つという理屈で、老婆を斧で殺す。
この青年がある娘と出会う。彼女は極貧の家族を自分の大きな犠牲で養っている。彼と彼女は生きる姿勢が正反対である。
彼は思う、なぜ彼女はそんな生き方をするのか。なぜできるのか。理解ができない。
だが、彼女を見ていて、しだいに心がひかれる。彼女を支えているのは神への純な信仰と、そからくる愛・希望であることがわかる。
彼は彼女と同じものを見たいと思う。そして、シベリアの流刑地で、ついに聖書に手をのばす。



2013.3.24 聖日礼拝メッセージ

 神殿の至聖所の幕が裂けた

マタイ27:50-51「イエスはもう一度大声で叫んで、ついに息をひきとられた。すると見よ、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた」。
十字架のイエスの死により、エルサレム神殿の大事な幕が裂けた。
「見よ」(ここに注目しなさい)。なぜ?それはとても重要なことを表すからである。

この幕は神殿(原型はモーセの幕屋)の聖所と至聖所を隔てる幕である。
これが裂けたことは、新約聖書的解釈をすれば、大祭司(キリスト)以外の祭司(キリストを真 に信じる者)でも至聖所(神が臨在され、直接語られる場)に入ることができるようになったということであり、具体的に言えば聖霊の戦い、強い臨在体験に入 ること、聖霊の直接的な語りかけを受ける体験に入ることができるようになったことを意味する。
その霊が50日後の五旬節(ペンテコステの日)の受霊であり、初代教会の霊的諸経験である。

幕屋でも神殿でも、三つの部分で構成されている。庭と聖所と至聖所。
これはクリスチャン(信者)の
信仰と経験の位相を表しているともいえる。
エゼキエル47章の「生ける水」に見られるように、あれは、人のからだと水位(聖霊の浸透度)の関係を表している。
くるぶしぐらいだと、まだまだ足の力で自由に動く。言わば「庭」にいる信者。
ひざ、腰あたりまで水(聖霊)に支配されると、自由に動き回ることができにくくなる。
「聖所」の位相にいる人。胸から上は、されに水位が高い「至聖所」。より確かに聖霊に支配される位相である。

十字架でイエスのからだが五体とも裂かれた。神殿の幕屋も裂かれた。
次は、わたしたちの心が裂かれる番である。
聖餐式で小さなパンを裂いて食べるのはどうしてか?あれは何の意味があるのか?
イエスが自分のからだが裂かれる場に行かれたように、わたしたちも心を裂く(心を神さまにささげる)。
我意を主張せず、我意に閉じこもらず、開き明け渡す。その表明である。
イエスは言われた、「(墓の入口の)
石をとりのけなさい」。マルタは少し抵抗した。しかし取りのけた。すると、弟ラザロが生き返った
黙示録3:20「だれでも、わたしの声を聞いて、戸(心)を開けるなら、わたしはその中に入って、その人と食事を共にする」。
4年前、ルーマニアで「種」の説教をした。
あるひとりの若い姉妹の心に響いた。
主が彼女にノックされたのだ。彼女は主に心を開いた。主が入って語られた。

聞いたところでは、彼女はその後、宣教師として北朝鮮へ行ったとのことである。

 


2013.3.17 聖日礼拝メッセージ


戒めの軽重よりも目的を教えた

マタイ22:34-40(マルコ12:28-34) パリサイ派とサドカイ派が集まり、どうしたらイエスを窮地に追い込むような質問をすることができるかを相談した。その上で、ある律法学者が来てイエスに言った、「先 生、どの戒めがいちばん大切なのですか」。イエスは言われた、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして主なるあなたの神を愛せよ。これがいちばん大切 な第一の戒めである。第二もこれと同様である。自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ。この二つの戒めに、律法全体と預言者とが、かかっている」。

律法学者は、「先生、仰せのとおりです。それは、すべての燔祭や犠牲(神殿祭儀)よりもはるかに大切な事です」と言った。イエスは、「あなたは神の国から遠くはない」と褒められた。この学者は戒めの本質や目的を掴むことができた人だった。

結婚で大事なことは何かと問えば、いろいろな答えが返ってくるだろう。性格、頭のよさ、収入、将来性、健康、容姿などなど。どれがいちばんかよりも、結 婚の目的、本質部分は何かを知るほうがもっと大事であろう。本質部分を知り、大事にする人は、しあわせな結婚生活を送ることができる。では、その本質部分 とは何か。それはお互いの愛を育むことである。ある検事さんの娘さんは、お見合い結婚をして東京へ行った。一年もしないうちに離婚をして実家に帰ってき た。夫が結婚前に10万円の借金があったことを隠していたという。隠し事をするような人とはこの先一緒に暮らせないということらしい。愛を育むきっかけ も、あろうことか、ばっさり切り捨てられた。

韓国のある若い士官は、婚約後に朝鮮戦争がはじまったため、戦場勤務となった。彼はそこで片腕を失った。婚約者の父親に解消を申し出ると、娘に聞いてみる と言った。娘は、いいえ結婚しますと答えた。これを聞いて彼は感動し、クリスチャンのすばらしさを知った。60数年後のいまも礼拝を欠かさない仲のよいご 夫婦である。

愛を育むことは、ある意味十字架を担ぐことでもある。夫婦でも、親子でも、また教会の兄弟姉妹の間でも、それは変わらない。いずれの場合も、育むもこと は、たやすいことではない。ある人の十字架は軽く、ある人のは重い。神は不公平なのか? そうではない。キリストの日に、軽い人には軽く,重い人には重く 報いられる。マタイ16:24-27。


2013.3.10 聖日礼拝メッセージ


復活を信じないサドカイ派が放った質問

マタイ22:23‐33(マルコ12章、ルカ20章) カイザルに税を納めるべきかどうかと質問したパリサイ派に次いで、サドカイ派がイエスに妙な質問をした。モ-セが、兄弟が子なくして死んだ場合、残った兄弟が彼の妻をめとり、子をもうけ、彼の名をつがせるべきだと律法で教えたことから、とんでもない例を持ち出した。

7人の兄弟の長男が子なくして死に、残りの兄弟が長男の妻だった女性をめとったが、7人の兄弟も順番に子がなく、みな死に、最後に女性も死んだ。復活の 時、この女性はいったいだれの妻になるのかと質問した。イエスは答えた、「復活後は、天使と同じく、結婚などしない」と。復活を信じない者が、復活後のこ とをあれこれ持ち出すこと自体おかしな話である。イエスを困らせようとの魂胆で出したのだ。

東大医学部卒の医者で作家でもある加賀乙彦氏が最近、『加賀乙彦』という本を出した。その中に、受洗に至ったある出来事が書いてある。58歳の時、生き ることが苦しくなり、カトリックの神父に相談した。若い頃、カトリック教会に通っていたが、社会人になって遠ざかっていた。作家として成功し、大きな賞を 受け、文部大臣奨励賞も受けたが、世の中に心底信じられるものがないことに気づき、苦しんだ。丸4日間、神父に質問を投げかけ、全部で二百項目に及んだ。 もはやそれ以上質問することがなくなった時、心が軽くなり、イエス・キリストを救い主と信じますと告白し、洗礼へと及んだという。

サドカイ派のように、ただ相手を困らせることだけが目的の質問と、自分が救われるための質 問とでは、おお違いである。復活など信じられないという。なぜ? 復活した人を見た例を聞いたことがないからだという。たしかに例は少ない。マレである。 なぜか? 神の計画にないからだ。この世に復活しても、前と同じだからだ。神は、罪をゆるされ、神の礼服を着る者に、肉体に代わる“霊のからだ”(コリント第一15:44)を与える。これが神の計画である。
神は霊である。帰天されたキリストも“霊のからだ”である。物体から成るこの世とは別次元の世界で生きる。唯物主義者には理解ができない。神の国は、愚かな“夢物語”ではない。万物の創始者である神が、永遠の国として創造された。イエスはサドカイ派に言われた、
「あなたがたは聖書も神の力も知らないから、思いちがいをしている」と。


2013.3.3 聖日礼拝メッセージ

イエスを窮地に追い込む質問

マタイ22:15-22(マルコ12章、ルカ20章も参照) 律法学者や祭司長らは、イエ スに同調するかのように見せかけた“義人を装うまわし者”(ルカ)を数人送り、イエスを窮地に追い込む必殺剣のような質問をさせた。「先生、あなたはどう 思われますか。カイザル(ローマ皇帝)に税を納めてもよいでしょうか。いけないでしょうか」。

“納めなさい”と言えば、ローマ帝国に服従しなさいということになり、ユダヤの救い主とはいえない。反対に“納めなくてもよい”と言えば、ローマへの反 逆罪になり、総督から厳しいさばきを受け、扇動となると死刑もありうる。いずれにしても窮地に立たされる。「では、硬貨(コイン)を見せなさい。これはだ れの肖像か」。「カイザルのです」。「では、カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」。彼らはこれを聞いて立ち去った。

ここで「神のものは」と言われたことばについて考えてみよう。人間のことを指している。創世記1:26-27に、人間は「神のかたちにかたどって創造さ れた」とある。英訳聖書ではShape(形・姿)ではなく、image(肖像・概念)になっている。つまり“霊性”であろう。アダムもエバも、すべての人 間は霊性を具えている。それは成熟したものではなく、未成熟な状態である。
神のことばにより教育されて成熟する。だが、彼らは、神の言葉を象徴する「いのちの木」を選ばなかった。「善悪を知る木」を選んだ。つまり、神のことばよりも自分の知識・判断を優先するほうを選んだ。いまの人間も同じあやまちをくりかえす。

神が人間に、“神のかたち”(霊性)を与えたのは、聖霊を受けるためである。聖霊に教えられ、導かれて、人は神のことばを悟り、神を知り、深くきわめることができるようになる(ヨ ハネ14:26、16:13、コリント第一2:10)。聖書を頭で読んでも、考えても、自分の力だけでは足りない。助け主、聖霊さまが必要である。心を開 いて、神に祈り求めよう。神のことばと聖霊により、霊性は教育を受け、成熟へ向かい、神のかたち(肖像)を形成していく。私たちは神のものなのだ。神のも のを神にお返ししていこう。

 


2013.2.24 聖日礼拝メッセージ

王子の婚宴のたとえ

マタイ22:1-14 イエスは天国を“王子の婚宴”にたとえて話された。
婚宴の用意ができたので、王は“招かれていた人たち”のところへ、しもべを遣わし、「どうぞおいでください」と言わせた。
ところが、「畑が忙しい」とか「商売がある」とか言って、招きに応じなかった。
そこで王は、「道で出会う人に声をかけ、だれでもいいから応じる者はつれてきなさい」と言った。
しもべらは行って声をかけ、応じた人々をつれてきた。
やがて席がいっぱいになった時、王が現れ、見渡して、礼服をつけていない人たちに言った、「友よ、なぜ礼服をつけないのか」。
その人たちが何も答えなかったので、「外の暗闇に放り出せ」と命じた。
せっかく招かれたのに、婚宴に与ることができず、暗闇の中に放り出されて、歯ぎしりして悔やんだ。

王は神、王子はキリストを表す。“招かれていた人”は、福音が最初に伝えられたユダヤ人たちを表す。
地方のユダヤ人たちは福音に応じたが、ユダヤ教の本部である神殿があるエルサレムのユダヤ人はあまり応じなかった。
そこで福音は全世界に向けて伝えられた。応じる者はだれでも教会に集まった。
その数が満ちる時、あのノアの方舟の時のように戸が閉じられる。方舟の場合は外へ放り出されることはなかったが、このたとえでは違う。
だから、いま教会に通う者たちは、緊張感をもってこのたとえから学ばなければならない。
鍵は、①礼服を受け取ること ②それを身につけること。

礼服とは何か。聖書である(テモテ第二3:16-17)。創世記から黙示録までを、くりかえし学びつづける。
重要な教えを覚え、自分にあてはめ、身につくように何回何十回と実行していく。
とはいっても、自分の力や人の力だけでは不充分である。聖霊さま(助け主)の全面的な介入が必要。だから心を低くして祈る。
頭の知的・理性的理解では不充分。聖霊さまによる心霊領域の理解が必要(コリント第一2:10-15、ヨハネ14:26)。それが力となる。

長い教会生活の目的は何か。
聖霊さまから聖書という神の礼服を受け取り、聖霊さまによって理解し、聖霊さまによって時間をかけ、経験をとおして身につけていくためである。
このことを自覚しよう。


2013.2.17 聖日礼拝メッセージ

いちじくの実を求めたイエス

マタイ21:18-20、マルコ11:12-21 イエスは空腹を覚え、いちじくの木を見て実を求めたが、実がなかったため、その木をのろった。
翌日見ると、木が枯れていた。なぜこんなことをされたのか。後ほど神殿の庭で話されることを聞くと理解ができる。

いまひとつ、いちじくの木の出来事から、「言ったことは必ず成ると信じて疑わないなら、そのとおりに成る」という信仰の偉大な力(エペソ1:19)について弟子たちに語られた。
祈りの時など、信じて告白あるいは宣言するが、じつはその後が大事。
パウロはテモテ第二4:7で「わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走り尽くし、信仰を守りとおした」と言っている。
「走るべき行程」とは、スタートからゴールまで。信じて求めた時から実現成就する時まで。この間、上り坂・下り坂、谷や沼がある。
それなりに努力しているのに進展成果が見られない上り坂。状態状況がしだいに悪くなっていく下り坂。
どうしていいのかわからず、ただもがいてばかりの沼や失望落胆の谷など。
こういう事態に遭遇すると,気弱な人は戦う前に降参し、信じることを放棄する。
そうではなく、パウロに倣って信仰の戦いを戦っていかなければならない。
見える状況は困難であっても必ず神は成し遂げられる、勝利される、栄光をあらわされると信仰を告白しつづけ(へブル4:14)、確認し(へブル11:1)ていく。
途中で簡単に放棄しない。マラソンのように忍耐強く(へブル10:35-36)あろう。必ず神のわざを見るようになる。

イエスは神殿で何を話されたのか。ぶどう園のオーナー(所有者)が園を農夫に貸し与え,旅に出た。
収穫期が来たので、しもべを遣わし、自分の取り分を求めた。ところが農夫らは傷を負わせて追い返し、最後にきた息子をも殺してしまった。
オーナーはどうするかという話をされた。
つまり、いちじくの実を求めたイエスのように、
神は、みことばを与えた人たちから、その実を求められる時が来る。
では、その実とは? 一言で言えば、神への愛と隣人への愛である。教会生活と伝道活動がその代表である。
この実を各自で結んでいこう。


2013.2.10 聖日礼拝メッセージ

 マタイ21章

ロバに乗ってエルサレムに入る
イエスは弟子らとガリラヤを出て、エルサレムへ向かった。
過越祭の六日前にエルサレム近くのベタニヤに入り、ラザロとマルタ、マリヤらの家に滞在された。
翌朝、近くの村へ二人の弟子を遣わし、つながれていたロバを引いてこさせた。イエスはそれに乗ってエルサレムへ行かれた。
祭のために各国各地から来ていたおおぜいのユダヤ人たちは、イエスを一目見ようと、手に棕櫚の枝葉をもって沿道で出迎えた。
上着や枝葉を道に敷き、口々に、“ダビデの子にホサナ”、“主のみ名によって来る者に祝福あれ”と言って歓呼の声を張り上げた。
その日は神殿の庭をぐるりと見て回り,ベタニヤへ帰っていかれた。

神殿を“きよめる”
次の日、イエスは再び神殿の庭に入り、庭で祭の準備のために家畜やハトを売っていた商人や両替商たちの台や腰掛を次々ひっくり返し、彼らを、むちで追い払った。たちまち大騒ぎとなった。
「父の家は、祈りの家ととなえられるのに、あなたがたは強盗の巣にしている」と言われた。
祭司長、律法学者らが駆けつけてきた。
すると幼い子らが、“ダビデの子にホサナ”と昨日大人たちが叫んだとおりに叫び出したので、彼らはイエスを非難した。
するとイエスは、「『幼な子,乳のみ子たちの口に、さんびを備えられた』とあるのを読んだことがないのか」と言われた。
この事があって、祭司長、律法学者、民のおもだった者たちがイエスを殺す相談を始めた。

メッセージポイント:
①ロバ
 はじめ、つながれていたが、イエスにより解放された。罪と死から救われる者。イエスを乗せる。
主のみ名のために、いろいろ苦労する。だが歓呼の声で迎えられる時がくる。千年王国と神の御国に入る時、天使らが迎えてくれる。
②神殿を“きよめる” 新約時代の神殿は建物ではなく、人の心と霊が神の住まい。心と霊は神(霊)との交わり(礼拝)を第一とするためにある。
ところが多くの人はそうしていない。

③賛美は幼な子の口に備えられた
 賛美=歌ではない。歌はメロディーを伴う。賛美は神をほめ、たたえ、あがめることである。
へブル13:15「賛美のいけにえ、すなわち彼の御名をたたえる唇の実を、たえず神にささげようではないか」。
自分を無にし、幼な子のような単純で素直な心になって感謝し、賛美する。
聖霊さまが心と霊を祝福し、満たし、神のいのちと光を与えてくださる。霊も信仰も、すべてが成長する。


2013.2.3 聖日礼拝メッセージ

盲人バルテマイ

イエスさまたちがエリコの町を出られた時、道端で物乞いをしていた盲人バルテマイともうひとりの盲人がイエスだと聞いて、
声を張り上げ叫び出した。ダビデの子イエスよー、憐れんでください。ダビデの子イエスよー、憐れんでください。
声が大きく、よく透ったのか、先頭を歩く人たちが、黙れ、黙らぬかとバルテマイらを黙らせようとした。しかし二人はなおも叫び続けた。
なぜこの盲人をイエスのもとにつれて行かなかったのか。ここに一つメッセージポイントがある。盲人は孤独な戦いをつづけた。
一対一でイエスと向き合うのだ。逆風の中で。だから気弱であってはならない。「勇気を出しなさい」(ヨハネ16:33)。
主に呼ばわり、叫ぶ。何も見えない中で。ただ主のあわれみを求めて。
この呼ばわり叫ぶという単純そのものの行為が彼の心のすべてを言い表していた。
自分の無力さ、他に助かる道がない、主だけが唯一の望み。彼はひたすら呼ばわり叫んだ。
何事も続けることが大事。
続けてこそ道も開かれる。結果をすぐ求めたり、変化を見ようと焦るのは禁物。

忍耐強く続ける。
「堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。
主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、知っているからである」(コリント第一15:58)
。知っているとは、聖書にその事例がいくつもあることを知っているし、自分たちの経験でも知っている。
盲人が報われる時がきた。イエスが彼を呼べと言われた。彼は喜び、上着を脱いで立ち上がった。なぜ上着を脱いだのか。
これで自分は新しくなれると思ったからであろう。ここにも彼の信仰が見られる。「わたしに何をしてほしいのか」。
わかりきった質問をされたのではない。イエスは自分の位置を声で教えた。
盲人は声のほうに向きなおって、「見えるようになることです」と言った。
「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った」
その時彼は見えるようになった。彼はイエスに従った。やがて心の目も開かれ、神の国のことがわかるようになった。
外も内も救われていった。いまわたしたちは神の国が見えているでしょうか。


2013.1.27 聖日礼拝メッセージ

人より多い少ない、高い低いで腹を立てる

マタイ20:1-16 イエス様の譬え。
ぶどうが収穫期に入った。ある園主(仮にIさんと呼ぶ)は朝早く家を出て、労働者が集まる労働市場へ行き、役立ちそうな人を物色しながら一日一デナリの契約で次々とぶどう園に送り込んだ。
しかし人手が足りず、9時頃もう一度市場へ行き、選考に外れた人を雇った。さらに12時と3時にも雇い、何と5時にも雇った。
どの園主も質のよい労働者を確保したい。3時、5時まで残っている人は、どの園主からも相手にされなかった人たちだった。

ここで、はたと考えさせられる。
園主のIさんとはイエスさま。午後に雇われた人とは、わたしたちのことではないか。
パウロはコリント第一1:27で、「神は、この世の愚かな者を選び、この世の弱い者を選び、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち無きに等しい者を、あえて選ばれたのである」と言っている。

6時に一日の仕事が終わる。Iさんは5時から来た人から賃金を払った。
ふつうなら12分の1デナリだが、一デナリ支払ったので、受け取った方が驚いた。
朝早く雇われた人は数デナリもらえるものと思った。だが一デナリだったので園主に不平を言った。
なぜあの落ちこぼれのような人たちに気前よくして、わたしたちには気前よくしてくださらないのですか。

洗礼を受けてまもない人が、すぐいやされ、長年教会に来ている人が、なかなかいやされないことがある。
家族の救いの場合もそうである。教会の兄弟姉妹の間で、恵みの多い少ないで腹を立てていませんか。

20-28 ヤコブとヨハネの母がイエスさまに、「御国で息子の一人は右、一人は左にすわれるようにお言葉をください」と願い出た。
それを知って他の弟子たちが腹を立てた。
イエスは、御国で偉い人とは、仕える人(僕となる人)のことだと教えた。神と教会に奉仕する人。
エペソ4:11-13に、「聖徒たちを整え、奉仕のわざをさせ、キリストのからだを建てさせ、信仰の一致と彼(神の子)を知る知識の一致とに到達し、全き人となり・・・」となる。
教会にはいろいろな奉仕がある。霊的な奉仕、実際的な奉仕。霊と心とからだで奉仕する。
それが何であれ、その奉仕を続けていく中で、生きた信仰と知識が身についていく。それが神の国の実力である。
人との比較ではなく、主に対して生きよう。


 

 

 

2013.1.20 聖日礼拝メッセージ

 命はどこにあるのか

マタイ19:16-20 (マルコ10章 ルカ18章) ある若い役人がイエスさまに走り寄り、ひざまづき尋ねた、「先生、永遠の生命を得るためには、どんなよいことをしたらいいでしょうか」。
イエスは言われた、「命に入りたいと思うなら、戒めを守りなさい」。「どの戒めですか」。
モーセの十戒からいくつか言われた。「それらは小さい時からみな守っています。ほかに何が足りないのでしょう」。
イエスは彼をいつくしみ見て、戒めの真の目的は愛にあることを思い、「自分を愛するように隣人を愛しなさい」と言われた。
命から愛へ話題が移ったが、命には、からだを生かすもの、心を生かすもの、霊魂を生かすものがある。
生かす働きをするものが命である。愛には、人を生かす命がある。

広島県尾道の沖に百島がある。人口六百ほどの小さな島。
その島の診療所で38歳の医師と看護師、事務長が働いている。島の人は、からだの命だけでなく、心のいのちまでもらっていると喜ぶ。
十戒は、“してはならない”が八つ、“しなさい”が二つ。しなさいにはゴールがない。どこまでも完結しない。愛も同じ。
もうそこまでで終わりということがない。「完全になりたいと思うなら、自分の財産をみな売り払い、貧しい者に与えてあげなさい」と言われた。
すると彼は、悲しみながら去って行った。多くの財産をもっていたからである。

いま『レミゼラブル』が上映中だ。
老神父が警察に言った、“銀の燭台は、わたしがこの人にさしあげたものです。これからはこの人も正しい真人間になって生きていくでしょう。神のご加護を祈ります”。
銀の燭台を盗んだ中年男ジャンバルジャンは、神父の愛のことばに心を打たれた。彼は生まれ変わった。
一度に大きな愛を与えることはできなくても、自分にできる愛を与え続けていくなら、それはやがて大きな愛になっていく。
神もイエス・キリストも、大きな愛を人類にお与えになった。大小いずれにしても、それを認める者が、受け取る者となる。

 


 

2013.1.13 聖日礼拝メッセージ

 神による夫婦像

マタイ19:3-12 パリサイ派の人がイエスさまに質問した。「何かの理由で夫が妻を離縁するのは、さしつかえありませんか」。
イエスは言われた、「創造者は人を男と女に造り、言われた、『人は父母を離れ、妻と結ばれ、二人は一体となるべきである』と。だから、彼らはふたりではなく、一体である。神が合わせられたものを人は離してはならない」。

ここに神による夫婦像をみる。
まず結婚を考えている人は
、ふさわしい人が与えられるように神に真剣に祈り求めること。
神が合わせてくださるようにと求める。これはいわば
結婚の基礎工事である。
すでに結婚している既婚者で、うちはうまく合っていないと思う人は、いまからでも神に祈るとよい。真剣に祈り続ける。
ヤコブ5:16「いやされるようにお互いのために祈りなさい。義人の祈りは、大いに力があり、効果のあるものである」。
義人とは神を本気で信じる人である。信仰の表現としての祈りを積み、神の時を信じて待つ。すると変化が現れるようになる。

次に、結婚後のことだが、「ふたりは一体となるべきである」が神による夫婦像。
互いに個性はあるが人生観や価値観が一致する。神の創造の目的に向かって互いに生き、協力していく。これが「一体となる」の意味。
とはいえ、
二人の力だけではできない
エペソ2:14-21に「キリストは二つのものをひとりの新しい人に造り変えて平和をきたらせ」とある。
二つのものとは、神と人、異邦人とユダヤ人。どちらも違いが大きすぎて合わない。一体化しない。
だがそこにキリストが間に入ると、合うようになる。
夫婦も同じ。水と油のような夫婦がキリストに心を開き、学び、祈ることにより、新しい人に造り変えられていく。
そして神との一体化と夫婦の一体化がなされていく。これがあるべき夫婦の姿である。

 


みことばの学びより

コリント第二12:19-21

パウロがコリントの教会に書いた第二の手紙は、自分の弁明のためではなく、
「あなたがたの徳を高めるため」だと言っている。この場合の徳とは、受けるだけの教会から与える教会になることを指している。
具体的には、飢饉に苦しむエルサレム教会への援助、コリント教会の誕生と育成に労苦したパウロへの感謝と報恩である。
報恩の心、それが徳である。

この広大な宇宙空間の中に地球という類まれな星を創設し、人間を創造された神の愛と英知に驚きと感謝をもつ。
これは知と情をもつ者として当然の所為である。さらに人の、神への無関心の罪、不敬の罪をゆるすため人としてこの世に生まれ、
十字架で犠牲となられた神の独り子イエス・キリストの深い愛に感動し、深謝するのも良心の当然の所為である。
報恩とは、この神の愛に報いたいと思う心情であり、実行である。パウロはその心を高めたいと言っている。
「惜しむ心からでなく、強いられてでもなく、自らの心で行う」(同9:7)。

12月はじめに、家内と韓国へ行った。20年来の友人(86)を訪問するためだった。
これまで何度も互いに手紙や物のやりとりを交わし、友情を温めてきた。南漢山村の料亭に案内され、韓定食をごちそうになった。
わたしは彼に渡そうと用意してきた百万ウォンの封筒を差し出した。その後、広州市の彼の家で千ドルが入った封筒を渡された。
彼もわたしに渡そうと用意していたのである。互いに笑った。与え、与えられる。そこに人と人とのつながりとしあわせがある。

パウロは次に、コリントの教会と自分が互いに期待はずれにならないか心配だと言った。
期待にも大小がある。大は別として、小の期待に応えるためには日々の研鑽が欠かせない。
一流の人はみなそうしている。この年もわずかでも自分に成長がみられるように心がけたいと思う。

 

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