2018.9.2 三つ目の誘惑を受けるイエス

サタンはイエスに世の中のさまざまな栄華を見せて、「どうです。すばらしいでしょ? わたしにひれ伏し、拝むなら、これらのものを皆あげますよ」と言った。
世界を支配したい、〇〇圏を支配したい、業界を支配したい、社内を支配したい、〇〇をしきりたいと願う人は昔もいまも、あまたいる。イエスはどう言ったか。「サタンよ、退け。主である神を拝し、ただ神にのみ仕えよと聖書に書いてある」と言った。

イエスは後に民衆にこう語った、「たとい人が全世界を手に入れたとしても、自分の命を損したら、何の得になろうか」と(マタイ16:26)。人にとって、「自分の命」の価値ほど重いものはないと教えた。

時代劇によく出て来るセリフの一つに、夜中に強盗に襲われた豪商が、「どうか命だけはお助けください」というのがある。命以外なら何を取ってもかまわないという。
命の価値の大きさを知らせるセリフである。もう一つは、宿場の遊女が言うセリフである。「からだは売っても、心や魂までは売っちゃ、いませんよ」。からだよりも心や魂の重み(価値)を知らせるセリフである。

「いのちだけはお助けを」は、「からだの命」であるが、仮に助けられたとしても、「からだの命」には寿命がある。永遠のものではない。
物体(物質)だから。だが、人間は動物と違い、「神のかたち」(霊魂)を与えられている(創世記1:26-27)。それは永遠のものである。肉体の死以後も霊魂は存続する。
霊魂は物体でないから物理学や化学では捉えられない。つまり、現在の世界の科学レベルからすれば非科学的存在である。だが、現代人の科学レベルが届かなくても、霊魂は存在している。神の存在は、地球や人間、諸生物の存在がそれを証明している。神以外にそれらの存在を証明するものはない。

問題は、霊魂が「どういう状態で存在しているのか」である。感謝・喜び・平安・希望・愛・寛容・忍耐・信頼・謙虚・従順などが心の中に日々生きているのか、いないのか。霊魂にこれらを常時もたらす「いのち(命)」は何なのか。どこにあるのか。

創世記2:7「主なる神は・・・命の息を鼻に吹き入れられた。そこで人は生きた者となった」。
エゼキエル37:5「あなたがたのうちに息を入れて、生かす」。
14「わが霊をあなたがたのうちに置いて、生かし」。
ヨハネ20:22「彼らに息を吹きかけて仰せになった、『聖霊を受けよ』」。神が与える聖霊にある。
だからイエスは言われた、「神を拝し、神に仕えよ」と。

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