18.8.12 イエスの受洗と受霊後の荒野での試み

1.イエスさまがバプテスマのヨハネからヨルダン川で洗礼(水のバプテスマ)を受けられた時、聖霊が臨んだ。洗礼は、「死と葬り」を表す(ローマ6:3-4)。
自分の思い・感情・考えを捨て、神のことばに生きる。すると神の霊が働かれる。

 カナの婚宴でブドー酒が足りなくなった時、イエスは瓶に水を満たしなさいと下働きのしもべたちに言われた。
しもべらは、いまなぜ水が必要なのか、必要ないはずだと思ったが、イエスの言葉に従った。すると、瓶に入れた水を料理頭のところに持っていくように言われた。強い抵抗感があったが、この時も自分の思い・感情に死んで従った。すると、運ぶ途中、水がブドー酒に変わった。

 洗礼を受けた者は多いが、洗礼の意味(実)を知る者が少ない。
意味していることを実行する者はさらに少ない。聖霊が心に臨まれる。あるいは、自分の関わりの中で聖霊が奇跡を行われる。洗礼の意味(実)を行う者は、これを何度でも体験し経験する。

 「これはわたしの愛する者、わたしの心に適う者でる」(マタイ3:17)。神はイエスのことをそう言われた。イエスだけに言われるのか。そうではない。神が聖霊を与えられる者は、みな神に愛され、神の心に適う者である。

2.聖霊はイエスを荒野に導かれた。「試み」を受けるためであった。「試み」により、これからの働きの基本方針をはっきりさせるためである。

 40日間の断食を終え、空腹を覚えたイエスの心にサタンの霊が囁いた。「パンが欲しいのではないか。空腹の状況で何が必要かを知りなさい。
神のことばか。それともパンか。貧しい人たちは空腹の状態です。彼らに必要なのはまずパンなのです。パンをお与えなさい」。イエスはサタンに言われた、「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きると聖書に書いてある」と。

 パン(からだと生活に必要なもの)か。神のことば(霊魂に必要)か。
どちらを第一として与えるか。この試みでイエスは明確にされた。救霊を優先された。なぜか。肉体はこの世限りのものだが、霊魂は永遠に存続する。
その霊魂が「生き生きする」ためには「神の言」を食べることが必要なのだ。神のことばが頭ではなく、心に入る時、食べる経験をする。黙示録3:20。

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