18.8.5 バプテスマのヨハネの登場とイエスの受洗

1.バプテスマのヨハネの登場

 ○ルカ3章に、「皇帝テベリオ在位の第15年」とある。テベリウスはローマの初代皇帝オクタビアヌス(尊称アウグストス ルカ2:1)の養子となり、オクタビアヌスが紀元14年に亡くなると、第2代皇帝を継いだ。彼の在位15年目は紀元28年前後か。その頃、「荒野で神の言葉がバプテスマのヨハネに臨んだ」(同)ので、ヨハネは神の言葉を宣教した。

 ○ヨハネが生まれる前、御使がヨハネの父、祭司ザカリヤにヨハネの事を告げた。
「(ヨハネは)イスラエルの多くの子らを神に立ち帰らせる。彼はエリヤの霊と力をもって、主の前に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に義人の思いを持たせて、整えられた民を主に備える」と(ルカ1:16)。

 紀元前9世紀、アハブ王の時、イスラエルは偶像崇拝国と化していた。
主なる神が怒り、雨をとどめ、三年半の飢饉に陥った。その時、エリヤが偶像の預言者たちと対決した。「火をもって燔祭のささげものを焼き尽くす神こそ真の神である」と言い、火がエリヤの祈の時、燔祭に下った。イスラエルはこれでついに目が覚め、主に立ち帰った。

 ヨハネもイスラエルの民を神に立ち帰らせる働きをする。
ヨハネの時のイスラエルは偶像崇拝国ではなかったが、祭司・長老たち・学者らは、神の真意を悟らず、人間的、形式的な宗教儀式や規則によって民を導き、「盲人が盲人の手引きをしていた」。

 「父の心を子に向けさせ」と訳されているが、原語には「帰らせる、引き戻す」の意味がある。父と呼ばれるような立場や経験がある者でも、幼子のような心になり、神の言葉を受け入れるという意味。主もそう語られた(マタイ18:3)。

 ○ヨハネの説教は民の心に入り、人々は幼子のように受け入れた。そしてヨハネからヨルダン川で洗礼を受けた。「悔い改めときよめ」を表す水のバプテスマ。

2.イエスの受洗
 出エジプト記40章に、大祭司とその息子らは、幕屋の入口で水で洗い、聖衣を着せ、油を注いで聖別し、祭司の務めをさせよとある。
イエスの受洗と受霊は大祭司としての働きを開始されたことを表している。わたしたちも二つを受けて、祭司となろう。

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