2018.3.11 テサロニケ第一 5:20

1.5:20「預言の言葉を軽んじてはならない」。
口語訳は「軽んじる」と訳すが、原語のギリシャ語「エゾウセネオー」には「見下げる、捨てる」などの意味もある。要するに、心に留めないことである。「預言」は、神が個人的に心に示して(語って)くださった言葉。
つまり、神がわたしたちの心にお預けになったことを意味する。それを心に留めおかないで、捨て去ってしまうようなことをしてはいけないと教えている。

「わたしの言葉があなたがたに留まっているなら、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば与えられる」(ヨハネ15:7)。「イエスは自分を信じたユダヤ人に言われた、

『もしわたしの言葉のうちに留まっているなら、ほんとうにわたしの弟子なのである』」(ヨハネ8:31)。

 神がわたしたちの心にお預けになったその言葉を「種」とするなら、種が実を結ぶ時まで(実現するまで)、思いの中で消し去らず、留めおき、神が必ずそれを実現に至らせてくださると信じて、感謝と賛美を絶えず神にささげ(へブル13:15)、「アーメン」(そうです。そうなります)と信仰告白をささげ、栄光を神にささげ(コリント第二1:20)つづける。
「彼によって栄光をお受けになったのなら、神ご自身も彼に栄光をお授けになるであろう」(ヨハネ13:32)とあるように、わたしたちが神に栄光をささげつづけるなら、神もわたしたちにご自分の栄光のみわざをなしてくださる。この約束のゆえに、「いつも喜び、絶えず祈り、すべてに感謝をする」(テサロニケ第一5:16-18)。

2.神は言葉によって、すべての働きをなさる。
ヨハネ1:1-4から、神は言葉とわざによってご自分の計画・考え・意思・感情・意志・知恵・知識・力などのすべてを明らかにしておられることが分かる。神はご自分の言葉を「信じる者を救うこととされた」(定められた)(コリント第一1:21)。これが「神のご計画」(ローマ8:28)である。信じた者(召された者)と「共に働いて、万事を益とされる」(同)。

3.お言葉を得るまで、決してあきらめなかったツロの母親(マタイ15:21-28) 彼女は、イエスに無視され、冷たい言葉を聞かされた。それでもあきらめずイエスに「救いの言葉」を求めた。
イエスはとうとうこの母親の信仰に感心された。「あなたの信仰は見上げたものだ。あなたの願いどおりになるように」。その時、奇跡が起こった。

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