2017.12.3 テサロニケ第一2:2-6

1. 2 「先にピリピで苦しめられ、辱められたが、神に勇気を与えられ、激しい苦闘のうちに神の福音をあなたがたに語った」。パウロはエーゲ海を渡り、ギリシャのピリピで福音を宣教したが、投獄されてしまった。ピリピで生まれたばかりの信者たちが、パウロの投獄で動揺しないか、その事が何より気がかりだった。当局の調査の結果、政治色がないことが判明し、彼は釈放された。信者に動揺がなく、かえって信仰が強められたことを知って、パウロは神から勇気を与えられ、次のテサロニケでは「力と聖霊と強い確信により福音を語った」(1:5)。

 わたしたちもキリストと福音を宣教していく上で、あるいは教会生活を続けていく上で、各人各様の苦労や忍耐を味わうが、神はその都度慰めを与えてくださり(コリント第二1:3-4)、福音の前進に役立たせてくださるから(ピリピ1:12)ハレルヤである。

2. 3-6 「わたしたちの宣教は、迷いや汚れた心から出たものでもなく、だましごとでもない」。「迷い」とは、「ああではないか、こうではないか」の類を言う。
19-20世紀に盛んに世に広められた「生物進化論」も、進化の方法論について諸説諸論があり、すべてが「仮説」に過ぎない。パウロ流に言えば「迷い」である。いま巷で流行の「脳理論」もそのようである。「汚れた心」とは、「口実を設けて、むさぼる」(5)こと。金品を詐取すること。そういう動機も目的もない。「だましごとでもない」の「だましごと」とは?パウロはコロサイ2:8で「むなしいだましごとの哲学」と言っている。
外見は魅力的な包装紙や箱なのに、中身が空っぽ。世の大方の宗教がこれに近い。では、中身とは何か。パウロは、「死人の復活」だと言う。
それが「ないなら、信仰などむなしい」とコリント第一15:12-17で言っている。死後の事は人間には「わからない」。確実に知るのはだれか。神以外にない。
ダニエル書2章は、人知の有限と神知の無限を教えている。神は、「深妙。測り知れない事」、「暗黒にあるものを知り」である。キリストの復活は、神の答えであり、それを信じるのが「信仰」なのだ。
この世のことは、だれもがよく知っている。神に聞くまでもない。死後の復活を語らない哲学や宗教は、結局救いにならず、死と共に去りぬではむなしい。「だましごと」と言ったのは、そういう意味である。

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