2017.11.26 テサロニケ第一1:6-10

1.6-8)「多くの患難の中で聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、わたしたちと主に倣う者となり、マケドニヤとアカヤの信者全体の模範になった。すなわち主の言葉はあなたがたから出て、ギリシャ全土に響き渡り、神に対するあなたがたの信仰の事が言い広められている」。

 「多くの」を新共同訳は「ひどい」、NIV訳は「sivereシビア。きびしい、ひどい」と訳している。患難の数の多さ、程度もひどい中でテサロニケの信者らは御言を受け入れた。イエス・キリストの刑死は、神に対するわたしたちの罪のゆるしを得るための犠牲だったと聞いて、イエスと御子をこの世に送った神に深く、大きく感謝し、ほめたたえた。
神への感謝と賛美、イエスへの感謝と賛美が心を神に向かって開いていく。開かれた心に聖霊さまが来てくださり、宿られる。聖霊さまは御言を霊の中に入れてくださる。
それが「霊のいのち」である。霊的な喜び・平安・希望・力・愛・悟り(理解力)・確信が湧き出てくる。だから患難の中にあっても確信をもって御言に立ち、語るようになる。キリストに積極的に反対するユダヤ人らがギリシャ諸都市にもおおぜいいた中で、テサロニケのキリスト信者たちは臆せず福音を語った。
他のキリスト信者たちにとっての模範となった。彼らのことが伝播して、ついにギリシャ全土にまで及んだという。少数であっても、光っておれば影響を与える。

2.9-10)「神に対する彼らの信仰」。テサロニケの信者たちは①偶像を捨て、生ける神に帰った。
②まことの神に仕えた。
③主が来られるのを待っている。日本にもいまだに偶像を拝む人がいる。火事や地震の時、偶像は自分で動けない。人の助けが必要な偶像をなぜ拝むのか。生きた神が、まことの神。「神に仕える」とは、神が望まれること、喜ばれることをすること。神の喜び、望み、願いはすべて聖書に書いてある。聖書をよく知るようにする。これが仕える第一歩。仕えるには「自分というもの」がじゃまになる場合が多いので、自分を神にささげる。
すると聖霊さまがじゃまなしで働かれ、仕えさせてくださる。
「主が来られる」のを待つは、再臨の主を待つだが、それだけでなく、主からの応答が来るのを待つのも「主を待つ」である。主への願い、求めたことの答えが来るのを待つのも信仰である。①②③は、どれも「神への信仰」の現れである。

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