2017.11.12 テサロニケ第一1:1-3 ③

1. 「望みの忍耐」 望みが叶うまで待ち望む忍耐が必要。

へブル10:36「神の御旨を行って約束のものを受けるため、あなたがたに必要なのは忍耐である」とある。
ヤコブ5:7「主の来臨の時まで耐え忍びなさい」ともある。
「主の来臨の時」は、限定解釈では主ご自身が再臨される時と解されるが、拡大解釈では、主が祈り求めること、待ち望んでいることに報いて下さる時と解される。
昔の人は忍耐とか待ち望むことに今の人間ほど苦痛を感じていなかった。なぜか。何かにつけて不自由・不便・不足が多かった時代だから。
今は大概のものが揃っていて、あまり不足感を感じなくなっている。何かと便利で速い。だから、待ち望むとか忍耐することが苦痛に思える。

 四電の本社営業部長が懇親会の帰り、タクシーを待っていた。ところがすぐに来なかったので腹を立て、手配した部下三人の顔を殴った。
一人の耳の鼓膜が破れた。部長は部長職を解かれ、二か月の出勤停止処分を受けたという。先日の話である。

 福音書や使徒行伝ではイエスさまや弟子たちが祈り、命じると、すぐに応答を得ている記事が目立つ。わたしたちの場合はどうか。
そういう場合もあるが、いつもそうとは限らない。新約聖書の後半に属する文書でも、冒頭にあげた二書のように、「忍耐・待ち望み」の言葉がかなり出てくる。

 ローマ8:25「もしわたしたちが見ないことを望むなら、忍耐してそれを待ち望むのである」。いま見ていなくても、必ず見るようになる、神が見せてくださると信じる。
それが信仰である。「まだ見ていない事を確認する」(へブル11:1)。
見るようになると心の信仰で確認する。そして、神に感謝と賛美をささげ、神の愛と力をほめたたえる。つまり神に栄光・誉をささげる。神を喜ばせる。
「待ち望む間にすること」はこれである。何もせず待つのではない。
「彼によって栄光をお受けになったのなら、神も彼に栄光をお授けになるであろう」(ヨハネ13:32)。
いつか、いつか?と心を騒がせながら待つのではなく、神をほめたたえながら待とう。
「心の腰に帯を締め、キリストの現れる時(※応答の時)に与えられる恵みを、いささかも疑わずに待ち望んでいなさい」(ペテロ第一1:13)。
ルカ1:20「時が来れば成就する、わたしの言葉(約束)」とある。神は真実な方。イエスを通して、約束はことごとく「しかり」(アーメン)となる(コリント第二1:19-20)。

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